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欧州で働くためには英語だけでは全然足りなかった|スイスPhD Life

「英語を頑張らないと」と言っている場合ではなかった。

スイス・チューリッヒでのPhDが始まって今日で四日目、想定以上にドイツ語が職場で使われる言語であることは初日から、いや、契約を結ぶ時から分かっていた事だが、今日になってあまりの疎外感の積み重ねでひどく絶望してしまった。

初日の2時間半の病院研修もドイツ語(私の指導教官もHRも私がドイツ語使えないのを知っているのに参加は必須だった。何を期待されていたのだろう。。)、全ての義務連絡メール、ラーニング教材、書類、オフィスの中の張り紙、病院のホームページやサイト、同僚たちが楽しげに交わす会話、ほとんど全てがドイツ語である。ダイバーシティやインクルージョンはどこに行ったというツッコミを入れたくなる。

何がしんどいかというと、ドイツ語話者ではない自分のことが何も考慮されてないこと(自分が透明で存在しないようだ)、それを分かってくれる人がほぼいないこと(皆ドイツ語話者だ)、さらにメールや書類のドイツ語→英語への翻訳にかなりの時間を取られて業務効率が下がる上に、それでも知っておくべき情報を取り逃がしている気がすることだ。ドイツ語ができないと日々が不便すぎるし、埃のようにうっすらと孤独感が積もっていくだろう。

私の指導教官も同僚も、皆本当にいい人たちばかりで居心地はとても良い。ドイツ語の壁が高すぎると文句をこぼすと、翻訳や些細なことでも手伝うよと申し出てくれる。もちろん私と話すときは必ず英語を使ってくれる。そもそもスイス人ーに限らず欧州の人達ーは英語が流暢だ。アカデミアに酷い指導教官や劣悪な環境がある一定数存在することを思えば、私は本当に恵まれていると思う。(それにお給料も良い。)

そして、頭では分かっている。私のためだけに、全ての通知や連絡を英語にしてほしいというのはわがままで無茶な要求だ。日本にも『郷に入れば郷に従え』という諺もあることだし、異国に馴染むべきは私なのだ。外国に行って、その現地の言葉や文化を学ぼうとしないのはリスペクトに欠けると思うし、変わるべきは自分ではなくて環境だという態度は傲慢だ。Netflixシリーズの「Emily in Paris」のエミリーは、あまりにもフランスに馴染む努力やフランス語を使う意欲を見せずにかなりの視聴者から批判されていた。私もその時は強くそう思った。ローカルな言語を大事にしない人間にはなりたくないと。

しかし現実と理想は全然ちがう。スイスにくる前から、少しづつDuolingoでドイツ語を勉強して、いつか友人とドイツ語で話せるようになることを夢見ていたが、こうもドイツ語を使わないと不便な環境にいきなり置かれると、ちょっと待て話が違うと文句を言いたくなるし、しんどすぎて落ち込んでしまう。

あまりに気分が晴れなかったので、仕事終わりに私のパートナーと落ち合った時にぐずぐず文句を言い、夕飯の時も自分がいかにも無能で疎外感を感じるとこぼしたあと、一人になった時悔しくて思わず涙が頬をつたった。異国に馴染むというのはこんなに大変なことなのかと。

私のお気に入りのコメディアンであるTrever Noahが、あるインタビューですごく良いことを言っていた。

“A foreign country doesn’t feel like home until you understand the language.” 

これは本当に痛感する。私は大学院で修士課程取得のためフィンランドで2年弱過ごしたが、私はフィンランド語は挨拶程度で初心者レベルである。フィンランドは大好きな国で大好きな人達もいてセカンドホームはどこ?と聞かれたらフィンランドと答えるが、本当の意味で自分が社会の一員であるとは到底思えなかった。それはフィンランドの大学院とはいえ、インターナショナルプログラムでクラスメイトは世界中から集まっていた−そんな場で、誰かを孤立させない為に英語を話すのは最早マナーといった空気感もあった−が故に、フィンランド人しかいないようなコミュニティや地域社会に入り込めなかったからだ。英語での授業に英語での社交が当たり前の生活の中で、私は英語の力を過信しすぎていたのだろう。

個人的に、日本人の英語信仰は強いと思う。英語が話せる人が賞賛され全般的にネイティブスピーカーへの憧れも根強い。外国=英語、海外=アメリカというイメージすらある。だがそれはごく一部の英語圏にしか当てはまらない話だ。イギリスを除いた欧州諸国では、一番大事なのは現地語なのだ。英語ができれば良いということはなく、むしろ英語なんかできて当たり前だ−いくら移民が多いスイスでも、ドイツ語ができなければ仕事を見つけるのすら難しい現実がある。「英語を頑張らないと」と言っている場合ではない。

現地語を話せると、現地の人ともっと近くなれる。”OOから来た外国人”ではなく、同じ言語を話す私たちの”仲間”だと認識される。スイスは移民も多く、チューリッヒの町を歩いていても私がアジア人の見た目だということだけではマイノリティにはならない。ただドイツ語を話せないと、それはれっきとしたマイノリティになってしまう。

数カ国語を話す人々が当たり前に沢山いて、あまりのスタンダードの違いにめげそうになるし、絶望もするけど、地道に地道に進んでいくしかない。欧州に住む・サバイブするにはそういう覚悟が必要そうだ。私の昔の英語奮闘記は最近アップしたが、ドイツ語奮闘記についても今度記事を書こうと思う。

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この記事を書いた人

フィンランドで修士号取得(MSc), スイス大学院の博士課程在籍中。専攻は神経科学。興味は人間の脳とこころ, フェミニズム, アート, 言語学習。

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