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私がフィンランドの大学院に合格するまで①|日本での安定した将来を蹴り飛ばし、違う道に行ってみる

はじめに

なぜ私が海外大学院受験記を書こうと思ったかというと、海外院受験に不安を抱えている人に「こんな人生に血迷ってる人でもなんとかなるんだ」「こんな遠回りもありか」というゆるっと感をお裾分けしたいと考えたからです。

私の周りで海外で学位を取っている人には、研究への志が高く、優秀すぎる人しかいませんし、blogを探していても凄い経歴と業績をお持ちの方ばかりで、私はしょっちゅう自分と彼らのギャップにやられそうになります。
ですから、私は(できるかぎり)赤裸々に私のひどめの状況を綴ることで、こういう生き方と可能性もあるのだなと、1ミリくらいどなたかの参考になれば嬉しいです。

読んでいくうちにお分かりになるかもしれませんが、本気で研究を極めて海外を目指す優秀な方向けのinformativeな記事にはならないと思うので(こいつはやばい…とドン引きされること間違いなしです)、ご注意ください。


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私のバックグラウンド

小学校(福岡)から高校(東京)までずっと日本の公立の学校に通い、英語や海外とは無関係の、特に凄くもない普通の思春期を過ごしました。日本の大学受験で人並みに苦労し一浪してから北海道大学に入るまで、英語は使うものという概念はなく、受験科目のひとつでしかありませんでした。まあ本当にふわふわと漂っているような子供でした。

それでも大学入学後、多くの学生が海外に憧れを持つように、私も長期休みの度にインターンや研修プログラムなどで色々な国に行きました。そこで色々とご縁があって大学4年生で日米学生会議に参加することが決まったとき、さすがに英語ができないと話にならないと思ってDMM英会話を始めたのが、今の自分の進路への大きな布石となりました。(くわしくは別記事「日本生まれ日本育ち留学経験なしの私がIELTS5.5から7.5になるまで」

海外大学院という選択と葛藤

私は大学に入るまで、それはそれは無知(今もですが笑)で、親や教師に従順で、素直に敷かれたレールに乗るだけで、自分の頭で考えて自分で意思決定することもできず、また外の世界に飛び出したりもできなかったタイプでした。高校生の時は、「将来安定そうだから理系」「国家資格あるほうが良いから医療系」「プライド・偏差値的に旧帝大がいい」と自分の興味をガン無視し、一浪した時も「とりあえず早くそれっぽい大学に入りたい」とふわっと北大の歯学部を選んでしまったので、後々遅ればせながら自分のアイデンティティや興味が確立するにつれ、学部での学問・定められた進路と自分の興味・ありたい姿が解離してしまい、6年間ずっと心のわだかまりが取れずに苦しみました。特に、病院実習が本格化し卒業が見えてきた大学5年生くらいから、これからずっと日本を離れることなく、歯科医師という数十年先が決まり切った、好きでも得意でもないことをやり続ける人生に心底ぞっとし、文化人類学とか全く違うことを勉強し直してもいいし、フォトジャーナリストも楽しそうだし、普通に就活して開発コンサルでも良さそうetc…それはそれは現実味の無い血迷ったことを沢山考えていました。(迷走中に考えていた残りの選択肢は恥ずかしいので割愛)

転機は、大学5年生の冬に、「海外で自由に働いて生きる」ことを応援している教育家・白川寧々さんの記事を見つけて、オンラインサロンに入ったことでした。彼女に、とりあえず海外の大学院行ったら良いじゃんとあっさり提案され、自分の興味のありそうな分野に専攻チェンジして海外大学院受験することを決めました。とにかく、そのとき自分の目の前に見えていた「日本で歯科医師」という安定した将来を全力で蹴り飛ばし、全然違う人生を歩んでみたかったのです。本当に必死でした。

しかし大学生になるまで(日本のconformity文化にどっぷり浸かって育ったせいか)自分のアイデンティティや自分の興味関心を追及できず、主体的な自己決定をあまりしてこなかった私には、自分の心に正直になって進路を決定するのはかなり難しく、色んな雑念や固定概念に囚われて、新しく学びたい専攻を決めるのでさえ紆余曲折しました。

6年間の医学のバックグラウンドを活かさなくて本当に良いのか、登りかけた山を降りて別の山にゼロからスタートしたらキャリア的にかなり出遅れるのではないか、周りの友人が稼ぐのを横目に自分がまだ経済的に独立できないのはダメなのではないか、卒業後の就職に困るのではないか(社会の需要はあるのか)、社会的地位はどうか、世間からどう見られるのか、予想されうる両親のネガティブなリアクションや全否定される不安、本当に選んだ学問に没頭できるのかetcetc…
挙げたらキリがありませんが、大学院受験をすると決めた時から合格するまで(合格してもなお)ずっと尽きない不安とストレスを抱えていました。頭の中で再生されるネガティブな声が自分の人生をナレーションすると、悲愴感しか感じられず、人生辛い…という非主体的な被害者面をしてしまうことも多々ありました。

それでも、私の海外大学院受験をサポートしてくれ、話を聞いてくれる優しい方々に囲まれたおかげで、なんとか自分で決めた道を走り切ることができました。数年前に日本での就活を考えていた時は、コンサルとか会社で既に働いている方が手を差し伸べてくれ、そちらへの情報量・サポートが広がり、徐々に自分の意識やコミュニティがビジネスサイドへ傾いていったように、自分が海外の院に行くのだと決断した瞬間から、そちらの方面からの情報が入ってくるようになり、留学サポートしてくれる人が現れ、留学の道へと足を踏み入れて少しずつ歩を進めるうち、最終的にもう引き返せない所まで来ました。だから、何を決断するにしても、決断した方向へ道が広がってゆくことを痛感したし、本当に沢山の人の繋がりとサポートと情報があってこそ、自分の今いる場所に辿り着くのだと理解しています。

私には、選択と決断・意思決定に関して非常に意識的である友人がいるのですが、彼は「毎日は選択と決断の連続で、今の小さな選択や行動や取り入れる情報が積み重なって、自然と大きな選択に繋がる」と言っています。私も、過去に出会った人や誰かがかけてくれた言葉や毎日の小さな努力がなければ、海外院を受験するという選択肢が出てこなかったかもしれないし、その選択肢が浮かんでも、色んな事を捨ててまで海外への道を選ぶことができなかったかもしれません。こう考えると人生は不思議というか、不確実な必然性に痺れる心持ちになります。

葛藤パートが思わぬ方向に走ってしまったのですが、次回は私がどう専攻を大幅にチェンジして大学を選んでいったのかという話をしたいと思います。
最後まで読んでくださってありがとうございました。


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この記事を書いた人

フィンランドで修士号取得(MSc), スイス大学院の博士課程在籍中。専攻は神経科学。興味は人間の脳とこころ, フェミニズム, アート, 言語学習。

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